「風景にさわる」長谷川浩己

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ランドスケープアーキテクト オンサイト計画設計事務所の長谷川浩己さんの著作です。ランドスケープデザインの考え方、ものの見方について書かれています。

最近では著名物件を数多く携わっており、地元多治見駅北口に完成した虎渓用水広場の水を使ったデザイン、星野リゾートの作品など独自のデザインで定評があります。

以下抜粋です。

風景はつねに「すでにそこにあるもの」としてあり、ランドスケープデザイナーは、すでにそこにあるものへ働きかけることが仕事である。そしてランドスケープデザインとは、その変容にいかに意識的に関わるかではないか。

ランドスケープデザインとは、固有の風景がもつ表情を読み取りながら小さな原風景の種を仕掛けることでもある。

願わくばデザインに関わった場所が、世界そのものの姿と一人の人間を結びつける秘密の通路でありたいと思う。

ランドスケープデザインのゴールは部分だけのデザインではなくて、そのことによって起こる、さらには起こってほしい全体像の変容にある。

デザインの中の要素が互いに互いを必要としているか、ということは私の中では重要なチェックポイントである。

建築の原形がシェルターだとすれば、風景のそれは庭である。

様々な行為の記憶はつねに場所への記憶でもあるのではないか。

イーフー・トゥアンの言う通り、場所への深い無意識の愛着はその場所を取り囲む固有の風景と強く関係づけられている。場所はつねにそこを取り巻く風景とともに立ち現れる。風景は単なる背景ではなく、場所性の根幹である。

そこで「場所」である。場所の感覚がこの世界で生きていくための足がかりであり、それは風景の中に出現する。

あいていに言えば、風景とはすなわち公共空間なのではないだろうか。

観光地に限らずとも、自分たちのまちの風景に誇りをもっていると言えるだろうか。使い勝手のいい素材や便利で安価な材料がじわじわと風景の価値を落としていないだろうか。

風景は忘れがたい生まれ故郷や住むまちのアイデンティティと結びつき、私たちの存在のよりどころとなる。また時間とお金をかけてわざわざ見に行く観光資源にもなる。風景には重要な資産価値があることは明らかだろう。・・・それは風景とはその場所で渦巻く関係性の総体であり、私たち一人ひとりが否応なくその渦の中にきっちりと組み込まれているからだろう。風景とは私たち自身でもあるのである。

ランドスケープデザインとは「私たち、または私たちの暮らしを、風景という大きな基盤にきちんと接続させるためのデザイン」または「風景を構成する膨大な他社たちとの関係を模索するデザイン」なんだろうと思っている。

みんなのため、というのは何ともわかりにくい。主体者に顔、つまり個性がなく、受け手は市民として埋没している。意図されずにできた正体不明の場所、空き地は魅力的だが、意図したにも関わらず正体が不明の場所をつくろうとしていることに問題がある。

そうランドスケープデザインとは「すでにそこにあるもの」「選んで連れてきたもの」または「自分たちで新たに用意したもの」それぞれを新しい関係のもとに配置しなおすことでもある。

パブリックな空間にいかに自分の場所を見つけられるか。それが私たちがもう一度、まちや他者とつながる方法であり、その欠如が今日の大きな問題である。

デザインは場所をつくることではない。その一歩手前を設えて、そこに一人でも居られる場所が生まれることを期待する行為である。

歩いて楽しいまちこそが、これからの都市がもう一度求めるべき姿だろう。

こうして都市は徐々に歴史とコンテクストを失い、住民のまちへの誇りや愛着も薄らいでいく。ひいては、他所から人を惹きつける都市としての「顔」も失っていく。

最近の都市・商業施設・宅地開発などでは、なぜかその場所とは無縁の世界の風景を持ち込む風潮が目につく。・・・これはまさしくオブジェ化された断片的な風景の出現である。

私たちはいま混乱の中にいる。が、このことは言えると思う。つながりをもたない風景は共有できる基盤とはなりにくいだろう。

風景はそこでの関係性の総体であり、身体に張りついた固有の表情である。

風景の中にある「すでにそこにあるもの」とは、その地で歴史を刻んだものである。言葉を変えれば、それらはその土地にとってかけがえのない資産であり、住民にとっても大事なシンボルになりうる存在である。

風景を介して世界とつながることができる。ランドスケープデザインを通して、風景にさわることができるのである。なんてわくわくすることだろう。



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by nichijou-raisan | 2017-11-26 13:28 | レバレッジリーディング | Comments(0)